第一話「AKARI」

柴野日向

 なけなしの五百円を支払い、カルピスウォーターの入ったプラスチックカップを受け取った。薄い味をちびちび啜って後ろの方に着く。小さなライブハウスはそれなりにお客が入っていた。
 駅前でフライヤーを配っていた女子高生は、僕が自分の母校の生徒だと知ると、ただでチケットをくれた。せっかくだし、暇だし、やることないし。そんなみっともない言い訳を心の中で唱えつつ、僕はのこのことやって来た。鬱屈とした心の奥には重たい塊が沈んでいる。自分が外の看板を見て、一度入ってみたいと常々思っていたライブハウス。いざこの場に立って、自分の羨望は客席ではなく、あの一段高い場所なのだと思い知る。今の僕は、あの一メートルにも満たない高さをよじ登ることさえ出来ない。
 やかましいBGMが止んで照明が暗くなり、唯一明るいステージの上にバンドメンバーが姿を現した。お揃いのオリジナルTシャツ。中心でマイクを握るのは、僕にチケットをくれた女子高生だ。
 演奏が始まると、勝手にリズムを感じて僕の足は床を叩く。メロディーを奏でるギター、低く唸るようなベース音、小気味良いドラムの演奏。そして、ライブハウスを越えてどこまでも響くようなボーカルの歌声。スポットライトを浴びる彼らの曲に、観客は手を上げ、更に合いの手を入れたりと、盛り上がりを見せている。
 曲が進むにつれ、次第に羨望も嫉妬も薄れていった。ライブハウスで体感する生の演奏には想像以上の迫力があり、まるで音楽に打たれるみたいだ。歌詞が心を、音が身体を揺るがし、ほんの数十センチ高い場所にいる彼らは、まさに手の届かない場所で輝いて見える。
 最後の曲というのが名残惜しかった。アップテンポの曲。それに聴き入る観客の中に、見覚えのある顔を見つけた。
 佐倉(さくら)未玖(みく)――。通っている中学校のクラスメイト。その横顔を見た途端、僕は今の楽曲とは異なる衝撃を受けた。興奮に頬を赤くした彼女は口を動かし、恐らく歌詞を辿っている。それだけの光景が、信じられないものだった。
 ライブが終わりを告げ、まだ残っているカルピスウォーターを飲み干し、再び彼女をちらりと見る。向こうも僕に気付いたようで、ばっちりと視線が合った。
 知人である以上、知らんふりをするのも気が引けて、人の流れのままロビーに出て彼女に近づく。気まずそうな佐倉にかけるべき言葉が見当たらず、僕は挨拶代わりにほんの少し会釈をした。
「ライブとかよく来るの」
 肩で切りそろえた髪、僕より少し低い背丈。サマーニットにジーンズという私服姿の佐倉は、小さく頷く。
「たまに……」
 僕は初めて彼女の声を耳にした。
 佐倉未玖は学校で全く喋らない。昨年度は登校拒否でほとんど登校しなかったそうで、僕は彼女の存在自体、今年の四月に同じクラスになるまで知らなかった。少しずつ登校するようになりつつも、相変わらず言葉を一切発しない。首を傾ける仕草で「イエス」「ノー」の意思表示をするだけで、誰が構おうと声で会話をしない。場面緘黙という名称を耳にしたものの、病気だろうが何だろうが、ちっとも声を出さない彼女は立派にクラスから浮いた存在だった。
 その佐倉とライブハウス。あまりに異質な組み合わせに僕は驚愕し、声をかけて返事があったことにも仰天する。しかし自分から話しかけた手前、絶句するのも失礼だと思い直し、「このバンド、好きなの」と気にしていないふりをして言葉を繋げた。
「メンバーのブログをいつも読んでて……それで、ライブに行ってみたくなって」
 隠し切れない僕の困惑を感じ取っているに違いない。けれど彼女はしどろもどろながらも返事をする。
「ネットに上がってる曲は聴いてるんだけど、実際に演奏をしてる所に行きたくって」
 なんだ、普通に話せるじゃないか。
「良かったよね。特に最後の曲」
 僕の言葉に佐倉は嬉しそうに顔を綻ばせ、大きく首を振って頷いた。

 翌日の学校で密かに様子をうかがっていた。佐倉は相変わらず誰とも喋らないまま、昼休みも教室移動でも常に一人で行動し、その表情は常に硬い。いじめられてこそいないものの、まるで空気のような彼女は、居てもいなくても同じ存在であることに変わりない。
 ほんの一日前のライブハウスで、ステージに目を輝かせていた佐倉の姿を思い出す。僕らはあの後いくつか言葉を交わし、何でもない同級生として手を振って別れた。意外にも通りやすいあの声を知っているのは、恐らくこの教室では僕だけだろう。
 結局、僕が見ていた限りの佐倉は、相変わらず誰とも会話をせず挨拶もせずに放課後を迎えた。
「響介(きょうすけ)、今日遊び行くんだけど」
 鞄を背負い廊下に出ようとする僕に、友人の一人が声をかける。
「ごめん、用事があって」
「そかそか、じゃあまたな」
 分かり切った返事に彼はひらひらと手を振り、たちまち友人グループの輪の談笑に交ざった。彼らの大きな笑い声が廊下まで響く。カラオケか、それともゲーセンか。行き先が聞こえる前に、僕は早足に階段を下りる。気を遣って、誘いだけはかけてくれる。だが今となってはそれもごく僅かで、何度も断る僕の事情を認知した友人グループでは、僕を放課後の遊びに誘わないことが暗黙の了解となっていた。誘ってくれるなという我儘と、無視されるのは寂しいという我儘が、いつも僕の中で渦になっている。その渦は自己中心的な自分への嫌悪になったり、どうしようもない境遇に対する自己憐憫、もしくは友人たちへのお門違いな腹立ちに化けた。そして悲哀や怒りの波が去ると、ぽかんとした虚しさが僕を内側から侵食して胸に空洞を作るのだ。
 貴重なお小遣いは、昨晩、たった一杯のカルピスウォーターに変わってしまった。あの薄い味すら当分口にすることはできない。情けなさにため息を堪えながら、僕はカラオケボックスでもゲームセンターでもなく、通学路にあるスーパーに寄る。主婦や老人に交ざってメモを見ながら買い物を終える。生活費の入った財布から金を抜き取るという誘惑にかられるものの、実行する気概はない。
 エレベーターのない団地の四階に上がり、部屋に鞄を放った。朝に干した洗濯物を取り込み、片付け、米をといで炊飯器にかける。冷蔵庫の野菜と買ってきた豚肉を炒め、小鍋で味噌汁を作る。
 二人分の食事をテーブルに並べ、一方にラップをかけ、もう片方をさっさと食べ終えた。日は翳り、薄暗い四畳半の和室で電気を点けると、暗さに慣れた目が蛍光灯の眩しさに怯む。ひっくり返った鞄は放置したまま学習机に向かい、引き出しからノートを取り出した。
 僕がいま生きていると感じられる貴重な時間。ノートにあらかじめ引かれた五線譜の中に、シャーペンでひたすら音符を連ねていく。パソコンもスマホも持っていないし、壁の薄い団地の部屋では古いギターの弦を弾くこともできない。頭の中の音感を武器に、自分にしか作れないメロディーを連ねていく。書いては消し、消しては書いて、誰にも聴かせる予定のない曲を、僕は黙々と生み出す。
 次第に全てを忘れていく。母の離婚も、金がないことも、遊ぶ余裕がないことも、修学旅行を辞退したあの日も、全て。憧れの軽音部のある私立への進学なんてもっての外、学外で活動をするどころか、楽器を買うことさえ満足にできない現状。僕を照らすのは、ステージ上で輝くスポットライトではなく、陽暮れに四畳半を浮かび上がらせる蛍光灯。虚しい、悔しい、腹立たしい。その全てをかき消すように、右手に力を込める。
 ドアの開錠の音に集中が途切れ、シャーペンの芯がぽきりと折れた。
「ただいまー。響介、いるー? 洗濯物ちゃんと取り込んだ?」
 母の大きな声が襖を通り越し、僕の脳内にある音符をかき消す。先月入った苦情も忘れて、床を踵で鳴らす足音。
「また人が辞めるらしくてさー。上司はあたしらの負担なんて考えないし、今のままでも回るでしょって。いや、回るんじゃなくて回してるってことが何でわかんないのかね。自分だって昔は営業で駆けずり回ってたくせに……」
 保険屋でパート勤務をしている母の愚痴はとめどなく溢れる。働くということがどれだけ非常な苦痛かを毎日毎晩滔々と語り、だから僕も理解しているつもりだ。仕事をして金を稼ぐ大人の大変さを。
 消しカスの散らばる頁に突っ伏した。漲っていた気力が身体からごっそり落ち、僕はからからの抜け殻になっていく。
 大人の、母が生きる大変さは僕が痛いほどに知っている。それなら、僕が生きる大変さは一体誰が知っているのだろう。

 僕の通う中学校に軽音部はない。仲間を募ったところでスタジオに通う金もない僕は、放課後にそそくさと帰宅すると、また急いで部屋を出た。昨日、作り置きをしておいたから、夕飯の支度は必要ない。
 端のほつれたギターケースを担ぎ、トートバッグを肩にかけ、街を流れる大きな川の河原に向かう。同級生と鉢合わせないよう周囲を見渡しながら、河原の公園に入った。遊具が少ないせいか子どもの姿はあまりなく、青いペンキの剥げた隅っこのベンチに腰掛ける。
 バッグから取り出したノートを隣に広げ、ケースを開いて古いアコースティックギターを取り出した。学生時代に母が使っていたもので、僕が興味を示すと譲ってくれた。僕が所有している唯一の楽器。見た目は古いけど大事に使われていたおかげで、今でもきちんと弾くことができる。チューニングをして左手でコードをおさえ、右手の指でゆっくりと弦を弾く。一つ一つの音が組み合わさり、唯一無二の音楽に姿を変える。自分の指がそれを可能にする。浅はかな感情でも、この全能感は心地よく僕を満たし夢中にさせた。
 僕の数少ない特技は、絶対音感だ。一度聴いただけの曲でも、記憶に残っていれば自分の手元で出力することができる。ノートに書き連ねた曲を一通りなぞった後、指を休ませる時間が惜しくて頭に浮かんだ曲を次々に弾いていった。
 公園でギターを弾いていると、人目を引くことがある。今やすっかり慣れたけど、執拗な視線を感じてふと顔を上げた。
「あっ……」
 小さな声が彼女の喉から零れ落ちるのが聞こえた。
「は、橋の上から、偶然見かけて……」
 少し離れたところにいる佐倉の声は聞き取り難かったが、辛うじてそれだけ聞き取れた。河原の公園は、そばの大きな橋の上から一望できる。
「わざわざ下りてきたってこと」
 僕の台詞に咎められていると感じたのか、佐倉は「ごめんなさい」と目を伏せた。たちまち、教室で見るのと同じ塞ぎこんだ表情になる。
「いや、別にいいんだけど」
 素っ気ないのは、怒っているのではなく単に気恥ずかしいからだ。クラスメイトの女子に、公園でギターを抱えて格好つけているなんて誤解されたくない。外で弾いているのは、金がないだけなんだ。
「……どんな曲を弾いてるのか、気になったから」
「オリジナルとか、色々だよ」
「音楽、作れるの?」
 俯きがちの目が僅かに大きく開かれる。微かに尊敬の念が感じられて、悪くない気分だ。「まあ」と返事をして照れ隠しに弦を軽く指で弾いた。あまり親しくない女子との沈黙を逃れるため、僕は彼女との唯一の接点に触れた。
 コードのみで佐倉にはぴんときたらしい。あのライブで最後に演奏された楽曲だ。ちらりと盗み見ると、彼女の瞳にライブハウスで見たのと同種の輝きが閃いている。彼女はあの時、唇を動かして歌詞をなぞっていた。覚え込むぐらいに聴き込んだ曲に違いない。
「歌ってよ」
 ギターを鳴らしながら言うと、佐倉ははっと息を呑んで口を噤む。
「歌詞まで覚えてないからさ」
 そんなに好きな曲なら乗ってくれればいい。軽い気持ちの誘いだ。佐倉は躊躇し戸惑いつつも、やがて唇を開いておずおずと歌い出した。
 学校で言葉を発さない佐倉の歌声を知っているのは、僕だけだろう。顔を真っ赤にしながら、風にも紛れて消えそうな声量で、ギターに合わせて歌う。僕は不思議な高揚感に包まれる。ずっと一人で弦を弾いていたおかげで、誰かと演奏するということがなかった。自分の音と誰かの音が重なって一つの曲になるという、一人では不可能な演奏に自然と心が沸き立つのを感じた。
 終わってから、佐倉は赤い顔のまま「ありがとう」と頬を緩めた。礼を言うのは、僕の方だった。

 帰宅してから一晩中考え続け、その間もずっと夕方の興奮は冷めない。意外にもよく通る彼女の声が頭に残り、演奏の高揚が身体にこびりついている。もう一度、演奏したい。いや、もう一度ではなく何度でも。遅くまで暗い天井を眺めながら、弦を押さえ続けて皮の硬くなった指先を撫でた。
 決意が弱まらないうちに、翌日の学校で佐倉を呼び止めた。教室移動の途中、一人きりで歩く彼女はびっくりした顔で振り返る。
「良かったら、一緒に曲作らない?」
 僕がギターを弾くから歌ってほしい。その言葉に首を動かすことさえ出来ない彼女は、僕の友人たちがやってくるのを見て、急いでその場を去った。
「何してんの、響介」
 佐倉に話しかけたのだとは予想もしない友人に、僕は何でもないと返事をした。
 それから丸一日、佐倉からは何のアクションもなかった。スルーされて元々だ。僕だってテンションが上がって口走ったに過ぎない。
 ショックを和らげる言葉を思い浮かべて防御壁を心に築きつつも、自分の唐突な言動を思い出すと恥ずかしくて足踏みしたくなる。大して仲良くもない女子に、僕は何て阿呆な提案をしてしまったのだろう。
 もう少し落ち着かないといけないな。自戒しながら放課後に校門を出ると、すれ違うことすら気まずい当の本人がそこにいた。
 彼女が手渡すメモには、音楽がしたいと書いてあった。

 佐倉が見せてくれた手のひらサイズの音楽プレイヤーには、様々な楽曲が取り込まれていた。僕が名前を知らないアーティストも多く、彼女は時間のある時にはこれでずっと音楽を聴いているらしい。
 けれど楽器を習う勇気がなく、ギターもピアノにも触れたことがない。公園でアコギを膝に載せ、恐々と弦に触れる彼女の顔には好奇心が満ちていた。
「初心者用の中古なら数千円で買えるし、やってみなよ。僕のは貸せないけど」
 彼女からギターを受け取る。あれから急いで家に帰り、河原の公園の東屋にアコギを持ってきていた。夕飯はうどんでも茹でればいい。それより今の勢いが大事だ。
「……本当に、私でいいの?」
 おずおずと尋ねる佐倉に頷く。
「曲を作っても、歌う人がいなかったんだ。だから丁度いいと思って」
 君の歌声がいいんだとはとても口にできず、不愛想な言い方をしてしまう。彼女は、僕が自分に声をかけた理由がまだ腑に落ちないらしい。確かに歌ってほしいだけなら佐倉ではなく、もう少し仲の良い誰かをまず誘うのが当然だ。
 だけど頭に浮かぶ数人は、こんな公園ではなくカラオケやスタジオに行きたがるだろう。そして彼らは僕がそこに行く余裕がないことも知っている。気を遣って許諾してくれても、誘った僕が申し訳ない気持ちになる。
「ただの暇つぶしっていうか、せっかくだからっていうか。別にライブしたいとかじゃないし、ここでちょっと合わせてくれるだけでいいんだけど」
 僕の事情を知らない、それでいて実は理想的な声を持つ彼女は都合が良い。打算的な僕の考えに、佐倉はこくりと頷いた。僕の勘違いかもしれないけれど、表情の強張りは学校で見るものとは異なり、微かに期待を秘めているように思えた。
 日々書き連ねたノートを手渡し、コピーを取って返してくれるようお願いする。中を見た彼女が目を丸くして、「……すごい」と呟くのに誇らしさと照れくささを感じ、僕は慌ててギターを抱える。こんな感じと一曲披露してみせ、早々と解散した。
 驚いたことに、彼女は翌日にはノートを返してくれた。少し眠たそうな顔をしながら、僕が一人になった時を見計らって手渡していく。彼女なりの気遣いだろうが、まるでスパイのやり取りだ。頁の間にはメモ用紙が挟まっていて、「コピー取りました、ありがとう」と女子らしい丸みを帯びた文字で書かれていた。
 放課後に毎日出かけられる暇はない。それでも合間を縫って僕はギターを背負い公園へ行き、どうにも時間が取れない日には家で曲を作った。相変わらず一人きりの作業でも、これまでとは違う感覚があった。佐倉はどう思うだろう、どんな顔をして声を充てるだろう。歌詞の一語、コードの一つに加わる責任は、僕の意識を心地よくぴりりと刺激してくれる。夢中になって僕はペンを握った。

 新しい曲を作る、全力を出し切れる曲を。
 放課後の邂逅を幾度か重ね、僕が過去に作った曲がある程度の輪郭を帯びた頃、僕はその決意を彼女に告げた。いま書いている曲は、僕の持てる知識や感性や技術を総動員したものになる。佐倉にとっても納得のいく曲にしたいから、意見があれば遠慮なく教えてほしい。そう言って少し緊張しながらノートを見せた。
 相変わらず学校では挨拶すら交わさないものの、校門をくぐれば僕に対し少しは警戒を解いてくれるようになった。佐倉はノートと僕の顔を交互に見て、わかったと返事をしてくれた。
 誰かに聴かせる予定はない、だけど自分の力を試したい。頭を突き合わせて相談するうち、当たり前だけど彼女は自分とは違う感性を持っているのだと痛感する。加えて頭の中にある語彙は僕より豊富で、印象的なフレーズを生み出してくれるし、彼女の指摘は納得できるものだった。これは僕個人の全力より、ずっと良いものになりそうだ。そんな予感がした。
 恐れていたことが起きても、僕は大して気にならなかった。
「あのさ、響介って佐倉と仲良かったっけ」
 クラスで友人数人に話しかけられても、想像していたほどの動揺はなかった。
「なんで?」
「いや、公園で二人でいるのを見たってやつがいるから……」
 控えめな口調ながら、彼らの目は好奇に満ちていた。放っといてくれという言葉を呑み込んで、僕は苦笑いを返す。
「曲作ってるんだ。そんだけ」
「曲って、佐倉と?」
「マジかよ、あいつってそんなことできんの」
 驚きの声の中に確かな侮蔑の気配を感じて、気分の悪さを感じながらその場を濁した。彼らを責めるつもりはない、僕だって正直なところ佐倉を下に見ていた部分があった。
 今となっては、大して知らない相手を勝手に見下すことをつまらないと思う。そう思えるは佐倉の優れた部分を知り、少なからずそこに尊敬の念を抱いているからだ。
 周りの好奇の視線と馬鹿にする声を僕は流していたけれど、反対に佐倉は落ち着かない素振りを見せた。公園に来ても頻りに辺りを見回し、せっかくきちんと聞き取れるようになった声をまた小さくしてしまう。
「……そんな気にしなくていいよ」
 居心地悪そうに身を竦める彼女に、ギターを抱えたまま僕は諭す。
「悪いことしてるわけじゃないんだし、別にあいつらが何か言ったところでさ、無視してりゃいいじゃん」
「……うん」
 それでも目を伏せる彼女の様子にため息を我慢する。教室では周りを常にスルーしてるくせに、今更こんなことでおどおどするなんて。
 苛立ちが滲んでしまったようで、佐倉はごめんなさいと小さな声で謝った。
「大丈夫、私、続けたい」
「無理する必要ないよ」
「ううん、お願い、続けさせて」
 視線を上げる佐倉の目に涙が滲んでいる。ぎょっとする僕に、鼻をすすって涙を堪えながら、「お願い」と繰り返した。
 彼女は二年前の出来事だといって、ぽつぽつと語り始めた。
 僕と異なる小学校に通っていた彼女は昔から歌が好きで、自他共にそれを認めていた。両親も先生も友人も皆が褒めてくれるので、音楽の時間が大好きだった。小学六年生の時に友人たちとカラオケに行った時も、せがまれるままに歌った。
 その夜には、カラオケでの動画がクラス中に広められていた。佐倉の歌う場面だけが切り抜かれ、女子も男子も関係なく、からかいの言葉とともに拡散された。曰く、ちょーしに乗ってるとのことで。
 全員がそれに賛同したわけではないだろう。しかし同調の空気がクラス中に満ちて、更には学年中に広まり、教師の耳に入り元の動画が削除された頃には学校で喋れなくなっていた。彼らとは離れた校区の中学校に進んだもののその症状は治らず、一年ほど不登校を繰り返し、最近になってようやく教室に入れるようになった。だけど自分が話せばまた笑われる、声を出せば噂をされるという恐怖はすっかり染み付いてしまった。
 この機を逃せば、自分はまた元通りになってしまう。他人の前で声を出す、このリハビリの機会を失ってしまえば。
「ごめんなさい……中辻(なかつじ)くんを利用してるつもりはなかったの」
 細い声を震わせてぽろぽろ涙を流す佐倉に、僕は呆然としてしまった。はっとして、大丈夫だと慌てて口を開く。
「利用されてるだなんて思ってない、僕だって、自分の都合とか考えてたわけだし……」
 家が母子家庭で貧乏で、他のクラスメイトを誘う気まずさの代わりに佐倉に声を掛けたことを白状して謝る。目を赤くした彼女は手の甲で涙を拭い、必死に首を左右に振った。
「お互い都合が良いなら、それでいいだろ。それで良いものができれば、一石二鳥じゃん」
 僕の乱暴な論に、彼女はまた大きく首を動かして頷く。二回も三回も繰り返し、ありがとうと掠れた声で囁いた。
 何よりも、僕らは音楽が好きだという同じ一心を持っている。理由なんて、それだけで充分じゃないか。

 それからも僕らは放課後に集まって曲を作り続けた。その様子を遠くから写真に撮られても、僕は驚くほど平気だった。頭にあるのはギターと新曲のことばかりで、友人たちはその様子を音楽バカと評した。呆れた顔で「完成したら聴かせてくれよ」と言う彼らには、「考えておく」とおざなりな返事をした。
「あんたさあ、シャツはちゃんと畳んでって言ってるでしょ、シワになったらどうすんのよ」
 実害を被っているのは母だった。
「あたしのことなんか、誰もわかってくれないんだから」
 一週間だけ自由にしてくれと頼む僕に母は嘆く。だけど、母も僕のことなんかわかっていないんだから、おあいこじゃないか。そう思うほどに僕の神経は図太くなっていた。
 七月の放課後、遂に僕らの曲は完成した。
 いつもの東屋に集まって、佐倉のスマホに挿したイヤホンを片方ずつ耳につける。曲は彼女のスマホに直接録音した。佐倉は頑張って編集ソフトを勉強してくれていたけど、手を加える前の生音源を聴きたかった。
 ドラムもベースもない、あるのは僕の古いアコギから流れるメロディーライン。微かに混ざる自然音が情緒的だ。イントロが終わり、佐倉の歌声がギターに乗る。よく通る声は、初めて耳にした時よりもずっと強い芯を帯びている。何度も書いて削ってを繰り返した歌詞をなぞり、一つ一つの単語を書きつけた場面がまざまざと思い出される。目を閉じると、音楽はすっと心の奥に染み渡り頭の奥でこだまする。
 一人ではとても作れなかった。かといって誰でもいいというわけではない、僕と佐倉の組み合わせにより形を成した、唯一の楽曲だ。今後、もし他の誰かと組んだとしても、この曲が持つ根本を表現することは不可能に違いない。
 ギターの最後の音が、長く尾を引いて消えていった。
 イヤホンを外すのも忘れた、自然と僕らは顔を見合わせた。
「すごいじゃん」
「すごいね」
 僕の言葉に佐倉も頷く。しばらくぼんやりと余韻に浸りながら思い至る。僕が求めていたのは、これだったんだ。ステージ上で浴びる賞賛ではなく、自分が心から納得できる健やかな達成感だったのだと。
 今日も持ってきたギターケースを開き、古いギターを取り出す。慣れたコードを左手で押さえる。ギターだこのできた指を、差し込む西日が照らす。弦をつま弾き流れるメロディーに、今までで一番晴れやかな佐倉の声が重なっていく。
 スポットライトよりも柔らかな夕陽が僕らを明日へ連れていく。ここにある音楽だけが今の僕の全てとなる。大丈夫、ここは僕らのステージだ。音楽を奏で続ける限り、僕らは光を見つけられる。