第ニ話「赤鬼」

萩津茜

 わたしは時折、今夜みたいな怪物に襲われる。そいつはわたしの思惟によるもののように思えるのだけれど――自閉的な傾向に対するメタファーのようでもあって、徐ろに角の輪郭が判然としたり――とも思えば単なる形而上の存在かのようにわたしに認識させたり。その怪物は、結局のところいつだって、何度襲いに来たって、ただわたしを右往左往と焦らすのだ。でも怪物に襲われる夜はどこか、吸う空気も星も澄んでいるように思える。例えるならば、それは田舎の夜、霞んだ山麓まで据え広がる田園の芳香のよう。そうしてわたしは易々と、この細く不健康な肌色の身体を、こころを、差し出すのだ。その怪物は決してわたしの中に巣食う、いわゆる特性だとか、本性だとか、哲学的な生存本能だとか、そういったものではない。怪物はいつだって、外界から襲ってくる。

 ――怪物、わたし、今夜は、凶暴だ。

 ほんのひとにぎりの春休み。わたしは怪物に指示された(ぼんやりとした記憶があるだけなのだけれど)とおり、あらゆる補修を回避したうえで、受験対策の特設講座も受講しないように環境を整えた。補修の回避は喜ばしいこととして、もう一方に関してはとりわけ親への説得が骨の折れるものだった。できるだけ穏便に済ませるため、できるだけ下手に会話を切り出して、できるだけ遠回しに事情が(事実を湾曲させたものだが)親の空気読みによって伝わるようにして、最後はわたしの心配ご無用な成績と、必要不可欠な休息を武器にして納得させた。自分のただ個人的な事情を汲み取るために親を、ある意味で利用したのは、これがはじめてだった。

 当然だろう、今のわたしの周りははじめてで溢れている。あれもこれも、怪物のせい。わたしのかれこれ約十六年来の、どこかファッションされた理性で制御されて構築されていた歪な平穏がだんだんめちゃくちゃにされていって。けれど、こんなわたしの災難は、ある群像劇の伏線のひとつひとつなのだとも思えてくる。――逆境とか衝動性とか、そんなものは所詮、誰の身にも起こりうる人生の一部とも言えるのかもしれない。先生や両親、わたしの周りの、いわゆる他人、彼らにわたしが心に秘めている一連を赤裸々に話してしまえば、それこそ、安易な言葉で言い切られてしまうかもしれない。とはいうものの、これらは杞憂に過ぎない。わたしの生活をめちゃくちゃにした怪物のこと。歪だと思えていた日常。どれも、わたしがわたし自身の中に閉じ込めて、一切口外することのない問題なのだから。

 両親の寝付く深夜、二十四時。瞬間、スマホのデジタル時計は零時を表示した。

 わたしはすでに夜の闇の中へと紛れていた。深夜徘徊に適した格好となると、悩んだ。お洒落をするのは飛んで火に入る夏の虫のようなものだし、かといって部屋着のままというのも、だらしなく思えて気が引ける。お洒落ができないくせに、目立つことに拒否感を覚えてもいるくせに、だらしない格好は嫌だ嫌だと、わたしはなんてわがままな子なのだろう。一考してのち、格好なんてどうせ誰も見ないのだから、という当然のことに気がついて、ちょうど着ていたセーラー服のままで行くことにした。

 百聞は一見に如かず、という言葉あるけれど。深夜徘徊のために外の空気を吸って最初に浮かんだ。寝静まった街を前にしてまず知ったのは、春の夜の肌寒さ。まるで新生活から逃げ出そうとする人を住居に押し戻すような、そんな嵐が吹き荒んでいる。たまらずわたしは自宅に駆け込んで、リビングのベッドに放ったままにしていた外套を羽織った。ほとんど布切れみたいなものだから、実際はあまり寒さを凌げてはいないのかもしれないけれど、取り敢えず体感的には温もりを得た。

「これじゃあまるで、家出少女だよ」

 怪物が扉の前で待っていた。――正確には、扉の前には何ら影も、具象的な輪郭も存在しないから、わたしがそう感じただけだ。

「やっぱり、制服のままじゃよくなかったかな」

「たぶん、そこじゃない。ほら、フードを取ってみな」

 ああ、たしかに。この外套はわたしが着るには不似合いなくらいに、丈が長い。無思慮にフードを被っていたけれど、傍から見ればわざと顔を隠しているように思われるかもしれない。わたしは怪物の言うとおりにする。

「あら、かわいい。ちょっとだけ大人びても見えるよ」

「……かわいかったら、なんなの。大人になることが大切?」

「自分を誇っていいってことさ。私の言うことなんて当たり障りのないことばかりなんだから、あんまり熟慮しなくていいの」

「いちいち熟慮しないと、社会はやっていけない、らしいんだけど。おかあさんはそう言ってる」

「人間なんて、社会なんて、ね。なんとかなるものだよ。却って、考えすぎる方が、不利益に働くことだってある。私の見ている限り、どうやら社会っていうのは不合理の連続らしいね。だから、あなたがたとえ心底よーく考えて、企図して動いたとしても、他人に邪魔されたり、なーんにも計画通りに進まなかったり、そういうことがざらにある。別に特別なケースの話しをしているわけじゃない。普通のことなんだ。だからね、あなたはもっと物事を楽観的に捉えてもいいんだよ。全力投球は、時に無駄になるんだから」

「いいや。これ以上聞いていると自分が嫌いになりそう。怪物のご意見なんて、知らないよ」

 わたしは怪物をかき消すように、その影を通り抜けた。

 深夜は静寂、そう思っていたけれど、耳鳴りだろうか? 風が胸を切る音かもしれない。昼間よりも些細な音が楽団みたいに騒がしい。わたしはスカートのポケットからイヤホンを取り出して、耳の穴に多少強引な力加減で押し込んだ。――ポップスが流れている。厭というくらい聴き慣れたメロディー。

 街灯ひとつない住宅街を抜けて、越えるべき大通りを前にした。歩行者用信号機は煌々と赤く照っているけれど、わたしはそれを無視して、横断歩道の白線に足をつけた。

 いち、に、さん、し。

 ご、ろく、しち、はち、きゅう。

 警戒を示す信号機の灯りは、今のわたしにとってスポットライトだ。車の一台も走っては来ない。だから、わたしは夜の街にどこか身を委ねて――腰をひねりながら、タップダンスを踊る、そんな気分になってみる。

 そういえば、近ごろは、楽しみ、ってものに盲目になっていたな。

 時も人も忘却して、それはそれは、愉快。愉しい。

 暗闇に映える白線、信号機、街灯。なんて愉快なの。

 怪物に囁かれるがまま、わたしは夜道を歩行する。それはもう、二点鎖線みたいなリズムを弾ませながら。大通りを横切ってからは、だんだんと小径へ入っていくのを感じていた。このまま道なりに直進すれば田園に出る。さらに正面の山に見下されながら進めばローカル鉄道の駅に到達する。

 三百円。わたしは奇しくも、右拳に隣町までの運賃を握っている。

 ふと立ち止まったわたしは、有り余る冷気を吸ってみる。――無味乾燥じゃない。どこか酸っぱいような、動悸を激しくするような。

 しばらくわたしは、路傍で深呼吸に耽った。せっかくだから、心地良いと思うことを思う存分、気が済むまでやろう。誰が邪魔するものか。

 今夜は、人気のある世界に帰らないと決めたのだから。

 何回目だろう、星座を眺めながら空気を吸った拍子だった。左耳から、卒然と音楽が消えた。と同時に、わたしは地球の声を聞く。夜空の声、がらんどうの窓光の声、アスファルトの吐息。

 右耳のイヤホンは、未だやかましく音を鳴らしている。――何故だろう、流れてくるのは詞のはずなのに、何故だろう、まるでわたしへの当てつけが囁かれているように思えてならない。

 左右で視界が分かたれた。右耳に苛々する。左耳にぼうっとして、孤独が浮かぶ。だからわたしは、歩道のどこか、闇へと葬られたイヤホンの片割れはそのままに、また歩き出した。

 盆地に一面広がる田園に、忽然と佇む駅舎。そこまでは案外まっすぐ歩いていくだけで、すぐに現着した。勿論のこと、こんな深夜だ。電車はおろか、駅員すら駐在していない。

「連れてきたかった場所は、ここ?」

「そうさ。朝陽が昇れば、あなたは電車に乗り込む。それで、隣町まで、あてもなく赴くんだ。ただ、それだけ」

 わたしは木造駅舎の傍にかがみこんだ。ベンチも近くにあったけれど、きっとキンと凍てついているだろうから、避けた。

 相も変わらず音楽は流れ続けている。紡がれる詞が、かろうじてわたしの孤独感を塞ぎ止めてくれている気がする。

 こんな夜分に、田園でぽつんと、ひとり。辺りは肥料やら農業用水やらの匂いで満ちている。はっきり形容すれば、かなり臭い。でも、生きていると感じた。わたしは支離滅裂な感受性を抱えているのかもしれない。いや、別に可笑しくもないのかもしれない。――生きているって感じる方法論。白昼の明かりに照らされたクラスメイトは、戯けて叫んで笑いあって、楽しいと、感じているのだろうか。わたしは、今宵の宇宙、信号機、田んぼ。夜の徘徊があってようやく、楽しいという感覚を、掴めた。

「ねえ、わたしって、可笑しいのかな。わたしが、可笑しいのかな」

「あなたは……考えなくていいよ。どうせ結論なんて出ないんだからさ」

 さすがに眠気が顕著になってきた。どうせこれじゃあ頭は回らない。

 ――赤い箱がある。赤い、自販機だった。

「飲み物、買ってくるね」

 のっそりと腰を上げて、自販機のディスプレイされた飲み物たちを確認していく。やっぱり一番に目を引かれたのは、二三〇円のエナジードリンクだった。わたしは右手をポケットから出して、冷え切った一〇〇円硬貨を料金投入口に挿入していく。エナジードリンクの購入ボタンを押した。いやに図々しく、液体を湛えたアルミ缶が落下して空気を振動させた。

 僅かな間で起きた出来事だった思う。それこそ、一陣の風が吹き去るくらいの。

 わたしは、運賃を失った。

 真夜中は冗長に感じられる。かといって、夜明けを待望しているわけでもない。むしろ――いつか訪れる夜明けのことを考えるから、この夜が冗長に思える。

 かがみ込んだわたしの傍には、空き缶がひとつ、まるで装飾品みたく丁寧に置いてある。改札口の手前。ここなら今宵の嵐も吹き込んではこない。

「おいで、こっちだ」

「動くのが億劫なんだけど」

「こっちだ。こっち。右を向いてごらん」

 ――豆電灯が点いていた。駅舎と同じく今にも割れて粉々になってしまいそうなほど古風な電灯。自分で誇っているわけではないけれど、このわたしが、ましてや真夜中に灯る稀有な光を見逃していたはずがない。

 豆電灯は、まさしく生きていた。明滅するさまは生物の鼓動のそれである。灯りは明確に、意志を宿しているように見える。灯りは明らかに、駅舎の木壁へと埋め込まれている全身鏡の存在を、わたしに仄めかしている。

 わたしは、押し出されるように前傾して、足を転がしながら、全身鏡の正面に倒立する。ただのわたしが映る、ただそれだけ。

 ――鏡の向こうのそいつは、赤鬼としか形容できない。きっとわたしを除いて、誰も彼もが畏怖するであろう、赤鬼がそこに居た。わたしが、そこに居た。

 ……途中から気づいてはいたんだよ。ああこりゃ、私、しくじっちゃったんだなって。それでも諦めの悪さが災いしてね、惰性であなたをひとり、こんな僻地まで連れてきてしまった。

 怪物。ずっとわたしに巣食っていたのは、怪物、あなたでしょう? 出ていってよ。今更、姿を見せて、ただそれだけのために、ここまで連れ出して。

 ふふ。――わたしは微笑んだ。

 ねえ、夜は、風の冷たさは、孤独に苛まれきることのない時間は、楽しかったよね。あなたは、間違いなく、あなたの意志でここまで来た。わたしは、あなたそのものなの。わたしは、赤鬼。だからあなたも、赤鬼。

 暴論だね。どこまでわたしをめちゃくちゃにしたいわけ?

 ……ずっと観察していたよ、あなたのこと。あなたの生活。あなたの、本音。この社会はあなたにとって、あまりに理不尽だよね。閉塞的だと思う。だからさ、もういっそのこと楽になればいいのにって、思ったんだ。わたしは、鏡の向こうからやって来た。ほんとうは許されていないんだよ、そっち側に行くことは。でもね、あなたを連れ出して、胸につっかえたままの石ころをまるきり吐き出せるようにして――わたしの代わりに、思いっきり楽しいって思ってもらいたくて。でも、もう、わたしの役目は終わりみたい。さようならだね。

 意味わかんない。

 もう、わかっているはずだよ。あなたは、拒絶を続けているだけ。

 意味、わかんない。わたしが可笑しいって言いたいの。

 あなたは。

 わたしは……。うん、もういいよ。――わたしはまた、微笑んだ。

 よかった。

 いいよ。わたし、たぶんもう壊れていたんだろうな。へーんな幻覚見せられちゃった。

 ……そう、好きに捉えたらいいよ。赤鬼さん。どうか、泣きたいときは思う存分泣いてよね。ほら、もうすぐ夜明けかな。